『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン
『アメリカの鱒釣り』 リチャード・ブローティガン 藤本和子訳
“Trout Fishing in America” by Richard Brautigan
ルーツをたどっているとき、いろんな方面からぶつかる人や作品がある。ロックならビートルズやロバート・ジョンソン。それ以前には無く、同時代のものとは一線を画し、それ以後はすべてが変わってしまう。前後の縦軸と同時代の横軸、その中心に置いたときに凄さがわかる。ただ現代の耳で聴いたのではわからないかもしれない。
この本と作家にもいろんなところからぶち当たった。藤本和子による本書の邦訳刊行は翻訳史上の革命的事件であり、これがなければ村上春樹の作品の存在も考えられないと柴田元幸が書いていた。そんな今年42冊目ぐらいに読んだ作品。
『アメリカの鱒釣り』は散文詩のような47の断片で成り立っている。「わたし」は妻の「かの女」と娘の「あかんぼ」とアメリカ西部をキャンプして回っている。子供のころの回想やサン・フランシスコでの出来事がその支流に流れている。sheを彼女ではなく「かの女」、babyを赤ちゃんではなく「あかんぼ」と訳すのには脱帽するしかない。
物語は”『アメリカの鱒釣り』の表紙”という章に始まり、マヨネーズという言葉で終わる。『アメリカの鱒釣り』の表紙は、サン・フランシスコのワシントン広場に立つベンジャミン・フランクリン像の前で撮影された。写っているのは著者とガール・フレンド。
1984年9月16日、『アメリカの鱒釣り』の表紙の男は頭に44マグナム弾をぶち込んで自殺した。アメリカン・フット・ボールの中継中に隣人が銃声を聴いた。調べてみると、その日曜日には確かにNFLの試合が行われていた。偶然にも僕が生まれた日の出来事だ。時差を考慮すると、この男と半日ほどはいっしょに過ごしたことになる。
最初は文章の雰囲気について行くのがやっとだった。<アメリカの鱒釣り>と文通をしてみたり、屋外便所に話しかけられた妄想をして「くたばりやがれ」と言い返したり、<アメリカの鱒釣り>が美食家でマリア・カラスとディナーをしたらどんなレシピがふさわしいかが書いてあるのだ。
“Sea Sea Rider”あたりから心地よくなってきた。古本屋でビリー・ザ・キッドの伝記を読んでいたはずが、店主にすすめられて知らない女と寝るはめになる。「ロールス・ロイス三千八百五十九台持ってるくらい」金持ちだという男の女と。一分になると、何だか気恥ずかしくなるような、永遠の五十九秒目を感じながら。
鱒にポート・ワインを飲ませ、自然の秩序に反する”ポルトワインによる鱒死(ますじに)”が起これば、バイロン卿の検屍報告書が<アメリカの鱒釣り>のためのものになった。小学六年生の”アメリカの鱒釣りテロリスト”たちが一年生の背中にアメリカの鱒釣りと書けば、校長先生は六年生用E=Mc2*1を使って彼らを黙らせた。
“ワースウィック温泉”で湯のなかにいってしまう描写は鱒の放精へのオマージュなのだろうか。何かの漫画(稲中かと思ったけどいくら検索しても出てこない)に鮭の放精の話が出てきたことを思い出した。
ここで登場するのが<アメリカの鱒釣りちんちくりん>*2だ。shortyの訳なんてふつう「チビ」しか思いつかないだろうに、「ちんちくりん」だなんて。鱒に噛み切られて脚がない*3アル中のホームレスの話。
『荒野を歩め』*4『ネオンの荒野』*5の著者ネルソン・オルグレンは<鉄道ちんちくりん>*6についていつも書いていて、保護者として最適だから<アメリカの鱒釣りちんちくりん>を送ることにしたのだ。その荷札を書くならこうなる。
内容物:アメリカの鱒釣りちんちくりん
職業:アル中
宛先:シカゴ ネルソン・オルグレン気付
そうして梱包用の木枠の外側に、ステッカーを貼りまくる。ガラス/取り扱い注意/要注意/ガラス/こぼすな/天地無用/このアル中、天使の如く扱うべし。
そんな計画を友人と話していたら大雨になり、<アメリカの鱒釣りちんちくりん>はフィリピン人が経営するコインランドリーで気絶していた。脳味噌を洗ってもらっている*7うちにいつしか眠ってしまったらしい。
あれやこれやで発送を延期しているうちに、彼は姿を消した。ブタ箱か精神病院にでも放り込まれたのだろう。彼がこの街に帰ってきて死ぬようなことがあれば「わたし」には考えがある。ワシントン広場のベンジャミン・フランクリン像の隣に彼を埋葬して、その土台に車椅子をしっかりつなぎとめ、石の上にこう刻む。
アメリカの鱒釣りちんちくりん Trout Fishing in America Shorty
洗い 二十セント 20 cent Wash
乾燥*8 十セント 10 cent Dry
永遠に眠れ Forever
何章かあとで彼は街に戻ってくる。”ネルソン・オルグレン宛<アメリカの鱒釣りちんちくりん>を送ること」に補足して”
映画界に見出された彼は車椅子から引きずりおろされ、怒り狂っているところを撮影された。その映像に人間の人間に対する非人間的仕打ちを糾弾する声を吹き替えるのだ。『アメリカの鱒釣りちんちくりん、わが愛』*9もしくは安っぽいSF映画なのかもしれない。『宇宙人・アメリカの鱒釣りちんちくりん』*10
切り裂きジャックこそ二十世紀の市長だ。不浄に燃えるコールマンの白色光は目下アメリカで大流行のキャンプ熱のシンボルだ。釣りそこねた鱒をカウントした日誌を読む。しょっちゅう行く『アメリカの鱒釣りの表紙』で、赤い服を着た”あかんぼ”が遊んでいるのを眺めながら考える。”砂場からジョン・ディリンジャーを引いたら何が残る?”カリフォルニアの未開地で鹿を追う警察犬。
「ワワワワワーッン!地面が鳴る鳴る鳴る鳴る鳴る鳴るう!どっしーん!どっしーん!」
"Arfwowfuck! Noisepoundpoundpoundpoundpoundpound I POUND!POUND!"
共産主義者たちがアメリカの鱒釣り平和行進をおこなった。「鱒釣り用毛鉤 賛成!大陸弾道ミサイル 反対!」クリーヴランド建造物取壊し会社では、川がフィート単位で切売りされていた。鱒はもはや、その付属品にすぎなかった。ダ・ヴィンチがアメリカの鱒釣りのためにルアー『最後の晩餐』を発明し、原爆やガンジーといった浅薄な業績を凌いで二十世紀最大のセンセーションになった。鱒などいないはずのヴァチカンから1万個ほどの注文が届き、合衆国元大統領三十四名は口を揃え「わたしは『最後の晩餐』で見事に釣った」と声明を発表した。
追伸
あげるの忘れてしまって、ごめんなさいね、例のマヨネーズ
後半を読んでいるときには、僕はもうブローティガンと藤本和子(なんと学部の大先輩だった!)の虜になっていた。二人の頭の中はいったいどうなっているのだろうと思った。完全に打ちのめされたから、すぐ2周目を読んだ。
この小説には優しさと物悲しさが流れている。ユーモアが溢れている。読みながら何度も笑ったけれど、どの章も読み終わったあと切なくなる。ブローティガンのアメリカは何かを失っていっていたが、それは彼の手にはどうにもならないことだった。アメリカのクリークには、死んだ人の名前がつけられていることが多い。
一回目を読み終わったあと、ふともう一匹の鱒がいたことを思い出した。この本が出た翌年にレコーディングされその次の年にリリースされた、散文詩を散りばめたようなレコードだ。キャプテン・ビーフハートによる<アメリカの鱒釣り>仮面の複製、トラウト・マスク・レプリカ。若かりしころのジョン・フルシアンテは、このアルバムで一日を始めた。パイの曲がTake 1じゃなくてBake 1なのが、僕はたまらなく好きだ。
Captain Beefheart and his Magic Band - Trout Mask Replica
ブローティガンのもう一つの短篇集『芝生の復讐(Revenge of the Lawn)』もすぐ買ってきて読んだ。この週末に書きたい。村上春樹とこの2冊についてもいろいろ発見したのでそのうち書こうと思う。
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今週のお題「最近おもしろかった本」